愛宕山の十三てんぐ(いわまの伝え話)


 昔、岩間山と言われた愛宕山には、杉山僧正を首領とする十二人のてんぐが住んでいました。
それぞれ葉うちわを持って雲に乗り、大空を矢よりも早く飛び回って魔物を打ち払い、厳しい修業によて身につけた術を使って重い病人を救ったり、天候を予知して作物の豊区を占ったりして、信者に幸せをもたらしていました。

 そのころ、狢内村の長楽寺に大変親孝行なお坊さんがいました。

 そのお坊さんの母親は大変信心深く、方々のお寺やお宮へお参りしていましたが
「一度でいいから津島の祇園祭りを見に行きたいものだ」
と、口ぐせのように言っていましたのでお坊さんは、何とかして願いをかなえてやりたいものだと考えました。

 そこで毎晩のようにてんぐのもとを訪ねて一生懸命弟子にしてほしいと頼みました。
断られても断られても熱心に頼みこんでやっと許されました。
その夜から、空を飛ぶことの出来るてんぐの技を身につけるための、厳しい修業が始まりました。

 お坊さんは体を軽くするために食事を減らし、木の根や草の汁などをすすり、大木のてっぺんから突き落とされたり、石段から蹴落されたりの厳しい修業が始まりました。

 お坊さんは、昼はお寺で仏様に仕え、夜になると道中を飛ぶように走って愛宕山のてんぐのもとで修業に励みましたましたので、お坊さんの顔はやせ細り鼻は高くなり目が鋭くなって、まるで、てんぐの形相そのものになりました。 




   

 

 ある年の祇園祭りの日のことです。

お寺から突然帰ってきたお坊さんが、「母上、尾張の津島の祇園祭りに連れていきますよ、さあ早く支度をしなさ い」
と言いました。

「何を言うのです。津島まで百里もありますよ。みんなは、十日も前に出発しているのに、いくら急いだって今からじゃ間に合うはずがないでしょう」
「大丈夫。母上は眼をつぶって私の背中におんぶしてくださいでも途中で絶対眼をあけてはいけませんよ」
と、お母さんに言い聞かせてから家を出発しました。
間もなく大きな松の木の下にお母さんをおろして、
「さあ母上着きましたよ。眼を開けてみて下さい」
と、言われて恐る恐る眼を開けて見ると賑やかな祇園祭りの風景が飛び込んできました。驚いたり喜んだりお母さん、息子と連れ立って早速祭り見物に出掛けました。
 一日をあちらこちらと案内されて楽しく遊び暮らして夕方になりました。お坊さんは又眼かくしをしたお母さんをおんぶして家へ帰りました。
「母上、私はとてもくたびれたのですぐ寝ます。私が一人で起きてくるまで絶対部屋に入らないで下さい」
と言って、寝床に入りました。

しばらくして、心配になったお母さんが「そーっ」と部屋をのぞくと、お坊さんの息子はてんぐの姿になって、寝床の上で大の字になって、グーグー高いびきで眠っていました。
「あれーっ。大変だぁ」と、お母さんの悲鳴に驚いたお坊さんはそのまま何処へともなく走り去って、母親のところへは再び現れませんでした。

それからしばらくして、誰言うとなく「長楽寺のお坊さんがてんぐになって住んでいる」と伝わりました。
そして、山頂の飯綱神社の祭礼には一三てんぐが祭られるようになりました。

岩間町史編さん資料収集委員会編

(岩間町史資料集, 第4号)

岩間町教育委員会, 1986.12


長楽寺の天狗


 いつの頃やら時代はつまびらかではないが、岩間の愛宕様や、遠江の国で有名な津島の祇園が出てくるのを見ると、そう古い時代でもあるまい。
長楽寺は修験寺であったのか、老母とその子である若者が住んでいた。

 若者は昼間は家に在って農事のかたわら、老母に仕えて孝養につとめ、夜になると近くの足尾山、加波山から筑波山の方面まで踏破して修行をおこたらなかった。
若者が祈祷すると何事でも願いがかなうというので、遠くからも多数の信者が来てそのご利益をいただいた。

 ある夏のこと、暑かった日も暮れた6月14日の晩、老母は若者に語りかけた。
「わしも、お前がよくしてくれるので何の苦労もない、このままいつお迎えがあっても憾みはないが、慾をいえば日本一の祇園だという明日の津島の祇園を見物したいと思うが、津島というところは唐、天竺へ行くほど遠いというから、諦めるほかはないね」
と笑談をいった。
若者はしばらく考えていたが、
「お母さん、津島はそう遠くはないよ、今から出かければ夜の明ける頃までには着くから行って来ましょう」
とすぐ行くことになった。

 若者は、白い行衣を着て老母を背負い目がまわると困るからといって老母に手拭で目かくしをして出かけた。
老母は若者が、また私をからかい半分に、その辺を歩くのだろうぐらいに考えて、背にしがみついているうちに眠ったかして何もわからなくなってしまった。 





   

 

 「さあ着いた」
と若者がいうので、目をさました、老母は眼の前の光景に驚いた。

今まで話にはきいても見たことがない広い広い海、その浜辺に集まっている何十隻とも知れぬ大船小船が、青・赤色とりどりの旗をひるがえして、勇ましい笛太鼓のはやし、それを見物する人達が浜に群れて、その賑やかなこと、老母にはまったく夢であった。
その日も暮れ、老母はまた目かくしをされて若者の背に乗ったが、いつの間にか眠ってしまって、どこをどうして帰った知らない。

気がつくと朝日が一ぱいに射している長楽寺の庭であった。

 若者もさすがに疲れたと見え、
「お母さんわしは今日一日ゆっくり寝るから部屋へは決して来ないでくれ」
とそのまま奥に入り、昼になり、夕刻になっても起きて来ない。

心配した老母は来てはいけないといわれた奥の仕切りをそっと開けて見ると驚いた。
大の字になって高鼾をかいている若者の肩から、大きな羽根が座敷一ぱいに広がっていて、天狗そのままの姿であった。

若者は、がばっと起き上がって、腰をぬかしている老母に、「お母さん、あれほど言ったのに見たな、もうお目にかかりません」というより早く見えなくなってしまた。






http://www.rekishinosato.com/essayW_16.htm

八郷町誌(昭和四十五年発行版)


彼の長楽寺といふは


  彼の長楽寺といふは、
修験者にて、常に西に向かひて、大日の真言を唱へたりしが、元より孝心ある者にて、
其の母が国々の神社、仏刹、旧跡など、見廻りたきよし云ふ
を、
いかで其の事かなへむとて、
殊に十二天狗に祈願し、祈願の叶ふまで、
断食の行を行ひけるに、中間に至り、山下に蹴落されたり。
 然れどなほこ
りず、又更に断食の行を為(し)果して後も、例の如く西に向かひ、阿字観して在りけるが、

或る日釈尊迎ひに来給へりとて、空に向かひ莞爾として
飛び去りけるが、
後にまた帰り来て、母を背負ひて望みの所々を、五六日
の内に見廻らしめ、家に帰りて母に云へるは、
『いたく草臥(くたび)れた
り。長寝するとも、覚むるまで必ず見給ふな』と云ひて、
一間に籠りて五
六日ばかりも覚めざりしかば、
母いたく待ちわびて、そとのぞき見るに、
六畳の間をはばかるばかり大きくなりて寝居たりし故に、
母あつと叫びて
逃退ける。

其の声に目を覚まし、傍らの襖を蹴破りて飛び出でたるが、是
れより後は帰り来たらずといふ。

 一説には、母を廻国せしめて後に、此の
事かならず人に語り給ふな、と禁(いまし)めしかど、母は嬉しきに堪へず、密かに人に物語りしかば、飛び出でてふたゝび帰り来たらずともいふなり。

さて長楽寺が家出しける後に、麓の村々を家ごとに誰とは知らず、
是れまで十二天狗に膳を十二供へたれど、長楽寺も加はりたれば、
今よりは十二膳の外に、精進の膳を一膳まして供へよと、触れ廻りける故に、
村々にて信仰の者ども、講中といふを立て置きて、日々に十三の膳を供へ、拝するにも十二天狗並びに一天狗と唱ふるとぞ。


大日山(おおひやま)の天狗(てんぐ)


  むかし、むかし、上加賀田(かみかがた)の仲谷津(なかやず)あたりに、こしん坊(ぼう)という息子(むすこ)と年寄(としよ)りの母親(ははおや)が住(す)んでいました。

貧(まず)しいくらしでしたが、こしん坊は親孝行(おやこうこう)で、親子むつまじくくらしていました。

 母親は、
「生きてるうちに、いろいろの所を見てえもんだ。中でも尾張国津島(おわりのくにつしま)の祇園祭(ぎおんまつり)は日本一のまつりだそうだ。それを見ればこの世になんの望(のぞ)みもねえ。しかし津島は遠くていけねえし…。」 と口ぐせのように言っていました。

ある時、突然(とつぜん)息子のこしん坊が、
「おっかあ、おらが津島につれて行ってやっペ。」
と言いだしました。
母親は、びっくりして、
「つれて行くって、二里(り)や三里の所でねえぞ。行けるわけがねえべ。」と、あきれ顔で言うと、
「いや、おらのいうことをよく聞(き)けば行ける。人には言わねえでこっそり行くべ。」
と息子はこたえました。

 そして、祇園祭の前の日の事です。突然、こしん坊は、
「おっかあ、目かくしをして、おらにおんぶされや。だとも、途中(とちゅう)で目かくしをとってはなんねえど。」
と、母親をうながしました。
母親は、息子のいうとおりに、目かくしをして、こしん坊の背(せ)におぶさりました。
そして、何時(なんどき)かすぎました。


 

 「おっかあ、津島についたから、目かくしをとってもいいぞ。」
と、こしん坊が言いました。
母親は、そっと目かくしをとって見ると、そこは、祇園祭りのお飾(かざ)りが町中に飾ってある津島でした。

にぎやかな津島のまつりを、あっちこっちみて、楽しいひとときがすぎました。そして、祭りが終わった夜、来たときと同じように、こしん坊におんぶされて家に帰りました。

「おっかさん、よかったっペ。」
「おら、この上もねえ所を見せてもらって、心残(こころのこ)りがねえだよ。」
「そうか、よかったなあ。だが、おっかさん、おら、よくよくつかれたから、あしたは一日中(いちにちじゅう)休ませてもらうぞ。おらの部屋(へや)はあけねえでもらいてえ。」といって、自分(じぶん)の部屋に入ってしまいました。

 ところが、夕方になっても起きてこないので、心配になった母親は、ふすまを音のしないように開(あ)けてみました

すると、部屋には息子のすがたはなくて、天狗が、八畳間(はちじょうま)いっばいに羽根(はね)を広げて寝(ね)ていました。

母親は、びっくりしたが、そっとふすまをしめ、知らんふりをしていました。

二、三日して、こしん坊が、
「おっかさん、おらごと見たっペ。おらの正体(しょうたい)を見たにちがいねえ。親子でくらしてぇのはやまやまだが、おらも旅(たび)に出るほかねえだ。体に気をつけて、元気にくらしてもらいてえ。」
と、家を出て行ってしまいました。


 

 母親は、息子の正体を知ってしまったから、ひきとめることもできません。

こしん坊は、大日山にこもりました。

しかし、昼間になると、時々帰ってくることもありました。

ある冬の日に、
「おっかさん、何か食いてえものがあっか。」
と、こしん坊が言いました。
母親は、
「おらは、竹の子が食いてえ。しかし、この寒中(かんちゅう)に、あるはずもねえべな。」
と、つぶやきました。
こしん坊は、
「大日山に来たらいがっペ。」
と言ったので、行ってみると、小さな竹の子が出ていたのです。

何日かすぎて、こしん坊がやってきて、さびしそうに言いました。
「おっかさん、おらは、いよいよ長い旅に出かけることになっただ。おっかさんの生きているうちは、食べものは心配すんなよ。大日山には、寒中になっても竹の子が出っからな。」
と、言い残して、こしん坊は、ふたたびすがたをあらわすことはありませんでした。

親孝行のこしん坊は、実は、大日山の天狗さまだったということです。






笠間市ホームページ

出典:笠間の民話(上)


愛宕山の石段(いわまの伝え話)


 お隣の内原町が中妻郷と呼ばれていたとろのお話です。

 この村に弥次兵衛という怠け者の百姓が住んでいました。
 ある年のことです。働き者の善兵衛の家で明日の田植のたねに用意した苗が一晩のうちに全部むすまれて大騒ぎとなりました。
弥次兵衛の家では苗を作らなかったはずなのに田植えをすませた田んぼには、緑の風がそよいでいました。

怠け者の弥次兵衛が怪しいと訴えられて、領主様のお裁きを受けることになりました。
「盗んだ」「盗まない」と互にゆずりませんし、証拠を見せろと言われても確かなものがありません領主様のお裁きも難行しました。

領主は二人を役所に呼び出して詳しく調べました。

「弥次兵衛お前の苗の種類はなんというか」 
「はい,モチでございます」
「そちの家では」
「はいウルチでございます」
 領主は二人に、
「これ以上ここで調べてもどうにもなむまい。秋になって穗がでればすべて分かるであろう。それまでまて」
と申し渡しました。

 弥次兵衛は困ってしまいました。本当はモチの苗なのかウルチの苗なのか分からなかったのです。盗んだ苗でした。 

「おらどうしたらよかっぺ。領主様に聞かれたんでとっさにモチと答えちゃったが、ウルチだったらどうすっぺ。盗っ人といわれてろうやさ入んなくちゃなんめよ大変だ」
そう考えるとじっとしてはいられません。



   

 

 なまけ者の弥次兵衛も、それから眠れない日が続きました。

 丁度そのころ旅の修験者が訪れて、愛宕山の天狗は、どんなことでも出来ないことはないという話をきかせました。
 弥次兵衛は、わらにでもすがりつきたい思いで愛宕山に行きました。
そして一生懸命に「あの苗がモチでありますように」と祈りました。

 それから朝早く起き出して、人目につかないように愛宕神社へとお参りして、あの苗がどうぞモチでありますようにと祈り続けました。
 
 秋になり稲穂がたれはじめました。お裁きの日が近付いたある晩。
心配で心配でじっとしていられない弥次兵は夜中にこっそり、あの田んぼの稲穂を抜いてきました。
おそるおそる灯に近付けて調べてみると、あら不思議その稲はまぎれもなくモチでした。ああよかった。

 いよいよお裁きの日となりました。役人によって刈り取られた稲が運び込まれました。
それを静かに手にとって調べている領主様を弥次兵と善兵衛は、食い入るように見つめていました。

 領主はおもむろに,
「うん、これは明らかにモチである」
とたんに、弥次兵衛の背中をひや汗が流れました。
百日以上も苦しみ続け、折り続けてやっと決まった勝利でしたがさっぱり嬉しくありません。
・・・何故なのだろう。

 その日からまぬけものの弥次兵衛は人が変わったように働き出しました。田畑も丹精したので見違えるようになりました。

愛宕神社へのお参りは欠かさないで続け、一生懸命働いてためたお金で、愛宕神社の参道に石段を奉納しました。   

 

岩間町史編さん資料収集委員会編

(岩間町史資料集, 第4号)

岩間町教育委員会, 1986.12


天狗松(いわまの伝え話)


 むかし、なん台山のもざわの上流に大きな石がありました。

その大石のそばに三本の松の木がそびえ立っていました。

 この松はあたご山の天狗たちが、同じ仲間の天狗がいるつく波山や加波山への往来に使ったのだといわれ、
 天狗松 という名がつけられていました。

 この木にのぼれるのは本当の天狗だけで、しゅ業中の者は近よることも出来ませんでした。
それほどの松は高くそびえ立っていて、そのいただきにのぼると関東一円がはっきりと見えたといわれ大事にされていました。
江戸の町からさらわれて杉山僧正のもとで天狗のしゅ業をしたという演吉少年も 
「気がついたらなん台丈という山の大きな松の木の下にいた」
 と、語っています。

 天狗は羽うちわを使って空を自由に飛ぶことが、出来ますが心にまよいいが出ると飛行中でもつい落してけがをしたりするので、羽うちわはようまをはらう道具にもなります。

 その昔、この松をのぼったりおりたりした天狗たちは、大空を自由に飛びまわれて山の王者そのものでした。









岩間町史編さん資料収集委員会編

(岩間町史資料集, 第4号)

岩間町教育委員会, 1986.12


愛宕神社の奉納相撲


 ある年、愛宕山のお祭りで奉納相撲が行われたときのことです。
近くの村々から力自慢の男たちが集まって来て広場は大にぎわい

やがて十人勝ち抜き戦を迎えると奉納相撲はさらに盛り上がりを見せましたが、勝ち上がって来た強い者同士がぶつかるので、なかなか十人を勝ち抜ける者が出ませんでした。

そこへ毛むくじゃらの大男があらわれ、対戦相手を次々と投げ飛ばし、すぐにも十人抜きを達成してしまうほどの勢いでした。

だれもが優勝はこの男に決まりかと思ったとき、土俵に上がってきたのは、どう見てもあまり強そうではないお坊さんでした。
ところが、お坊さんは、身のこなしが軽く、土俵上をぴょんぴょんと飛びまわると、大男のスキをついてあっけなく投げ飛ばしてしまったのです。

(今のはまぐれだ。あの坊さんがそんなに強いわけはない。)

そう思った人たちが次々とお坊さんに向かっていきましたが、その強さは並外れていて、またたく間に十人が倒されてしまいました。

お坊さんは、賞品の米俵を軽々とかつぐと何事もなかったように帰って行ったのです。
それを見た人々は、「あのお坊さんは、ただものではない。天狗様に違いない。」とうわさし、恐れました。

このお坊さんの正体を見届けようと後をつけた男がいましたが、お坊さんの足は宙を飛ぶように速く、土師(笠間市土師)のあたりで見失ったということです。


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参考資料

「岩間町史」(岩間町)

「いわまの伝え話」(岩間町教育委員会)

「常陽藝文 一九九四/四月号」(財団法人常陽藝文センター)

「茨城町史・地誌編」(茨城町)


天狗和尚


 東茨城郡茨城町下土師に、慈雲寺という曹洞宗のお寺があります。

むかし、この寺にタイニン和尚という一風変わったお坊さんがおりました。
出かける時は、いつも一本歯の高下駄をはき、六貫目(約二十二・五キログラム)もある鉄棒を持ち歩いているのです。
寺には小僧も置かず、気ままな一人暮らしで、自分で食事を作るのが面倒な時には、村人に「ちょっと兄寺のところで飯をごちそうになってくる。」と言ってはよく出かけて行きました。

この兄寺というのは小川(東茨城郡小川町)の天聖寺で、慈雲寺からは三里(約十二キロメートル)ほども離れているにもかかわらず、和尚は今出て行ったかと思うとすぐに帰ってくるのです。

(不思議だな。和尚さんは、空でも飛んでるんじゃないのか?)・・・・・・村人は半ば冗談でそんなうわさをしておりました。

ところがある日、それを裏づけるような出来事がありました。

和尚さんが村の子供を連れて、尾張国(現在の愛知県)津島の祇園祭を見物に行き、一夜のうちに戻ってきたのです。

その子供に話を聞くと、「和尚さんにおんぶされ、向こうに着くまでは絶対に目を開けてはいけないよといわれたんだ。少しして和尚さんが背中からおろしてくれたので、そっと目を開けたら、もう着いていた。津島の祇園祭はすごかったよ。あんなきれいなお祭り見たことないや。」というのです。

「やっぱり和尚さんは天狗様だったのだ。」うわさは、またたく間に村中に広まり、それ以来、この和尚を「天狗和尚」と呼ぶようになったのだそうです。

 前回(三十七話)の「愛宕神社の奉納相撲」でというお話で、十人抜きをして優勝したお坊さんは、この天狗和尚だといわれています。

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参考資料

「茨城町史・地誌編」(茨城町)

「茨城の伝説」(今瀬文也・武田静澄共著)

「茨城の史跡と伝説」(茨城新聞社編)

「いわまの伝え話」(岩間町教育委員会)

「郷土資料事典・愛知県」(人文社)

「日本の祭り事典」(田中義広編)

「津島市ホームページ・観光」