青森県青森市の郊外に5500年前の縄文の京、三内丸山遺跡があります。
そこでは栗を1500年もの長き間栗を栽培していたということです。
そんな昔から栗は最も身近で大切な食べ物だったのです。
日本風土形成
約2万年前、地球は氷河期をむかえ今より百何十mも海面が低く、日本はアジア大陸とつながっていました。約一万年前に氷河期が終わり、その後、地球の気温が上がるとともに海面も上昇し、日本列島が大陸と分離され日本列島が形成され、暖流が日本海に入り現在の日本風土が形成された。このときの温度上昇は、約6500年前まで続き平均気温は現在より約2℃上がり、海は、どんどん陸地に進んできて、茨城県などは半分近く海の中だった。(縄文海進という。) *図2・図3
図2 6000年前の関東地方
(国土地理院HP 計算機による仮想地形の世界 縄文海進ムービーより)
茨城県の約半分は海だった?。
日本に栗の文化が開く
この縄文海進とともに東日本に、栗やコナラなどの落葉樹林帯が拡大した。縄文人は、豊かな落葉樹林帯で、東日本に文化の花を咲かせました。(ナラ林文化という。)当時、西日本は、うっそうとした照葉樹林帯(シイ・カシ・クスノキ)におおわれ、人はあまり住んでいなかったようです。縄文人は日本人の直接の祖先と言われてます。栗とともに花開いた縄文文化。栗は、日本人の原点だと言えると思います。 *図1
図1
栗の遺体出土の縄文遺跡分布図(渡辺 1984)より
農耕の起源は、栗?
今から訳5500年前から4000年くらい前まで。(縄文中期)
縄文時代で、栗で有名なのが 青森県三内丸山遺跡です。日本最大級の縄文集落跡です。
三内丸山遺跡からたくさんの栗の柱と大粒の栗が出土した。
三内丸山遺跡では、栗の巨木を柱に使った建造物があり、遺跡の周辺の森は大半が栗の林だったことがわかっています。三内丸山遺跡は、栗とともに栄えた定住型都市型社会だったようです。
栗が栽培されていたと言う根拠。
その1 静岡大学農学部教授佐藤洋一郎氏のDNA分析により、野生種では見られないDNAパーターンの一致があった。
その2 現在の山を見ても、山栗が自然に林をつっくているところは無い。
生態学的に見ると栗は弱者なので、自然に栗の純林ができるということはないので、人為的に育てられた林と考えられる
と言う。
その3 山にある芝栗は、実生栗で実生栗から大粒の栗は取れない。現在は、接木で、良種を選抜し栗畑を作っています。
大粒の栗が出土したことから、ひょっとしたら、接木の技術をもっていたかも。
その4 1500年もの間、栗林があったこと。長き間、栗を栽培していれば、土地はやせてしまう。
肥料をあたえなければ、長期間、栗林を維持することは無理。
現在のところ、三内丸山遺跡の栗栽培は、プレ農耕と言う位置づけになっているようです。
研究が進めば、いつか、農耕の起源は栗と言うことになるかも知れません。
現在、青森では、ほとんど栗を栽培していませんが、当時は、現在より平均気温が約2℃高いため、現在の茨城のような気候だったと思われ、盛んに栗を栽培していたようです。